くさ野神社
◆ くさ野神社
くさ野神社は、浪江町の海岸部請戸にある。請戸(奥相志には受戸と記す。)は、奥相志にもあるように古より魚塩の利有る村であり、漁村として栄え、北標葉郷の中心的な漁港であった。特に中夏より、季秋にかけての鰹漁が盛んだったようである。現在も漁の従業者が多いが、鰹漁船は主に、いわき市の江名、小名浜から出入りしている。
社殿は、松の大木の群生する森の中に南面してなり、末社が数社それを囲んでいる。社地の松は、現在でも漁での目印にしているといい、また、北洋漁業に向う際に、近くの村人の、或は請戸の者の乗る船は必ず、社地沖で三度周り、航海安全を祈願すると言われることから、この社が、地理的にも信仰的にも非常に重要な役割を果たしていることがわかる。
◆ 式内社としてのくさ野神社
奥相志の記事中に「延喜式(註1)に載する所の標葉一社くさ野神社は即ち当祠なり」とあるように、この社は延喜式神名帳に記載されている小社、くさ野神社に充てられている。しかし、現在、地方の神社と千数十年も前の神名帳記載の神社を結びつけることは容易でなく、各方面からの学問的裏付けがなされなければ、これを断定することはできないと思われる。この点では、相馬地方にある式内社と言われている他の神社も同じであろう。
◆ 浮渡神祠
奥相志には浮渡神祠と記載されており、古く一般的には、この名で呼ばれているようである。地名の「うけど」も、この神社があったためにつけられたのであろう。
◆ 縁起伝説
この神社には興味ある縁起伝説がある。奥相志にはよくそれを示し3つの同じようなパターンの話を収めている。尚、伝説の古い形は、信仰に根ざしたものであり、社寺の縁起伝説は、これに相当する。
※ 縁起1
ある昔、この浜に一艘の船が流れ着いた。船中に木彫りの神女が9柱いた。そこで怪しんだある者が、これに立ち向かわんとするが、新汐渡彦なる夫婦が、これを制止した。その夫婦に神が告げることには「私は、この様にして東国に止まった。私を信ずる者は、国家安全、武運長久云々である。また、海を鎮め船の難を救うから私を祭れ」ということであった。そこで教えの如くすると、この神を祈るや海は直ちに鎮まるのだった。しかし、年が経ち、はじめにこの神を祭った小島は海の没し、そのために現在の地に神を祭ることとなった。
※ 縁起2(寺社来暦)
請戸の神は、天竺(インド)或は震旦王国(中国)の后である。もとこの夫婦は仲が悪く、后を空舟に乗せ海に流したところ請戸沖に流れ来た。村人の某氏がこれを見つけ怪しんで遠くへ放した。しかし、別の村人が釣りをしていたところ、その舟が寄ってきたため、それを岸に着けたところ女がいた。そのため養った後、これを祀った云々。
※ 縁起3(標葉記)
昔、この大明神は新羅の国から請戸小島に現れた女神である。その時2人の某氏がこれを拝した。1人は何もしなかったが、他の1人は小島へ社を造って祭った云々。
これらの伝説は、海から流れ寄った特殊なものを祀るという「漂着信仰」に付随する典型的な伝説の型である。
註1
「延喜式内社」式内社とのみ称する事もある。
神名帳に記載されている神社。弘仁・貞観・延喜神名帳にある全体が式内社であるが、前2社が散逸している関係上、延喜神名帳に記載されているものだけを後世式内社としている。延喜式神名帳所蔵の神社は座にして3132社ある。神名帳上の神社となる形式的要件は、
@国家的祭祀に与えるものであること、その際全座とも祈年祭により、また大社中のあるものは、月次・新嘗祭により、さらに一部のものは相嘗祭にもよった。
A大社か小社かの官社であること。
B祭事には官幣か国幣かの幣幕が捧げられていること。
C大社中のあるものは名神として名神祭にもよる。
官神たる手続きは、その社名が官符により神祗官の神名帳に記載されていることで完了した。そのためにその社を官幣社とも称した。官社が急速に増加したのは、承和年間(834〜848)以後」で、貞観式成立までにほぼ成立し、以後はわずかなものがあっただけである。その意味で式内社は事実、弘仁、貞観官帳社であった。
註2
相馬地方式内社
▲ 宇田郷・子眉嶺、
▲ 行方郡・高座・日祭・冠嶺・御刀・鹿島御子・益田嶺・多珂・押雄
▲ 標葉郡・くさ野
くさ野神社は、延喜式に記載されている神社の一つといわれている。
標葉郡小社くさ野神社というのが、これらしい。
(1) 奥相志によれば、浮渡神祠と記されており、この地が請戸(受戸)と称されるのも、この神が、ここに祀られていた結果であると思われる。土地の人々は、安波(アンバ)、大杉様と呼んでいる。
(2) 祭日は、2度あり2月24日(もとは、旧正月の24日)の安波祭りと、8月7日(旧の7月7日)の例大祭がある。
(3) 氏子は、この部落は、漁港であり、元は21艘もの鰹船を出していた。氏子は、旧請戸村全域であった。(請戸村は、戦後幾世橋、浪江と合併して、浪江町になった。)
この神を信仰する範囲は広く、いわき市から相馬まで浜通り全域に渡っている。
なお、氏子は現在390戸ぐらいである。
(4) 信仰については、まず安波祭りがある。2月24日(もとは旧正月24日)は、安波祭りといい、大杉と安波の2神を安置する。神輿が2台村内を練り歩く。
(5) 送り出しは、「お明神様は、雨でも、嵐でも出たいとおっしゃる。」といって、どんな悪天候でも、神輿は一の鳥居から出すものだという。もしそうしなければ、その年は、村に凶作が起こるという。神輿を担ぐものは、必ず漁師であり、その役割も、三役(せんどう、へのり、ともし)という役割があり、決まっていた。神輿は旧請戸村内を行列を作ってまわり、最後に、浜に出て、そこに安置する。神輿を安置する場所は決まっており、南の口のあたりの浜で、そこを御小屋(おこや)という杉の木で矢来をつくり海に向う東側を開けて、そこに締め(シメナワ)をはる。神輿は御小屋の中に安置する。この後、潮水を汲み、その中の濁り具合で、その年の吉凶を占う神事もある。
そして、神楽、宝財踊り、田植え踊りなどの奉納がある。以前は競馬もあったが現在はない。
(6) 例大祭は、7月6日よごもり、7日大祭で船止めであった。
6日は人出が多く、7日は船主の家では、さとうもちなどを出して、食べてもらえば魚に食いつかれるといわれている。
(7) おせんど参りは,南の口や北の口から海が荒れていて、どうしても港に入れない時に、村の人達が、おせんど参りをしていた。先に立つ人が榊の木を持ち、境内を裸足で回り,回る毎に一枚づつ葉をちぎり、神社に置く、すると船は入れる。
(8) 南口沖合いの旋回
遠洋に漁をしに行くときは、この地方の船は、神社の東にある南の口あたりを三度周ってから出かける風習が残っている。